Camphor二世

私たちの独り言集。 言葉のソラへ、ようこそ。

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下の記事二つをそれなりの形で書いてみたところで、
ようやく視点が定まりつつある。

すなわち、
自我はさまざまな次元で展開し、拡張縮小するものであり、
その境界に関わる事象について明確な定義ができない場合、
人間は不快や嫌悪を感じる、というものだ。



これは、漏れ聞いたR.D.レインの綺麗、汚いに関する説明を汲むものである。いわく、人が気持ち悪いとか、汚いとか思うのは、自他が混ざったもののことだと。

純なる内はもちろんのこと、純なる外にも人は気持ち悪さは感じない。
それが内なのか外なのかわからないとき、
それが気持ちの悪いものとして考えられるとか。


ところで、
虫が気持ち悪いとはどういう事態だろうか?
虫の気持ち悪さを感じるのはどういう時か。

やはりそれは、虫がこちらを向いた時であろうか。
羽虫がこちらに向かって飛んでくる、
土虫がこちらに向かって這ってくる。

そういう時ではないか。
とすれば、
普段の生活では完全に外である虫が、
突如外であることを止め、内であるこちらに向かってくると、
虫が外なのか内なのかがわからなくなるということか。

少々強引な気がする。
そうではない。

虫が気持ち悪いと思うのはどういう時か。
それはけして虫がそこに存在する時に限らない。
図鑑を見て感じるときだってある。

だとすればそれは、
その虫に触れたり、
その虫に触れられたりした時のことを想像しているからか。

触れるという状況においては、
自我は肉体という次元で解釈され、
そこに自我でないものが侵食すると捕らえられれば、
それは気持ちが悪い。

だがそれでは、
自我が普段の生活という次元で解釈された場合、
つまり上記の説明と変わらない。

そうでもない。
例えば生理的に気に入らないとか、
そういうものはどう説明さるべきか。

気持ちの悪さと自我の拡張縮小には
相互的な関わりがあるのかどうか。

少なくとも私の考えでは、
自我という概念が場面場面によって解釈の次元を変化させるものだというのは確定である。

例を挙げると部屋で抜け落ちた髪の毛は自我の外のゴミとされる場合があるが、著名なミュージシャンの髪の毛はそれ自体が売れることがある。だがこの場合は想像的な「他者自我」の拡張であるから実は話がややこしい。

もっと平易な例として、自らのハンドバッグを汚されたとき、不快に思うのはなぜか。それは、自我概念が自己の装備装飾にまで拡張されていて、その自我を自我でないものによって犯されたことに不快を感じていると説明できる。だが、その同じバッグを部屋のクローゼットに仕舞うとしよう。ここでバッグはすでに自我の領域から外れている。というより、自我が肉体という次元にまで縮小しているのだ。

なんだか余計にわかりにくくなったようで申し訳ないのだが、
もう少しこの自我の次元的な変化と、
気持ち悪いという気持ちとの関係について考えてみたい。

当面は生理的に気持ち悪い、ということについてである。
血しぶきの気持ち悪さについては大方説明がついているのだが、
虫のフォルムに対する気持ち悪さは考える余地がある。

……。
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